戦後史に残る大事件・光クラブ事件
首謀者・山崎晃嗣(やまざき あきつぐ)人物像
山崎晃嗣当時27歳。
医師であり木更津市市長だった山崎家の五男として、木更津市に生まれた。
彼は学徒出陣のため、戦争にも参加。友人の死や上官をかばい懲役を食らう。このために彼は遺書に「人間はもともと邪悪」と記した。
そして彼はまた偏執的なメモをつけていた。
病的なまでのスケジュール張の存在があった。
出来事が分刻みで書いてあり、その横に◎・〇・△の評価が存在する。
一番左の欄には何をしていたかを記録。包み隠さず、すべてを書いていた。
この記号にもちゃんと意味がある。
〇は将来のために有効に使われた時間。大学の勉強や睡眠・食事など彼にとって重要なこと
×はマイナスの時間。失敗したことへの反省。
△はどうでもよいことに費やされた時間。ちなみに女性との逢瀬などもこの欄に記述。
常に未来を見据え、いらないものは切り捨てる冷酷さを持っていた。
そんな彼の言葉「女は道具である」
光クラブ結成。
彼は東大生の中でも群を抜く知性の持ち主だった。
当時大学時、一学年下の学年だった三島由紀夫は彼をモデルにした小説を執筆。
同じく一学年下の日本マクドナルド創業者・藤田田はこう彼を評した。
今まで彼ほど頭のいい人と出会ったことがない、と。
それほど頭のいい彼は、東大生を集めて「光クラブ」という会社を興した。
悪魔の巣窟・光クラブ。
光クラブ。それは高利貸屋である。
闇市で成り上がった金持ちを相手に出資を募る。
その金を融資希望者にそのお金を一般人にも「高利子」で貸し付けた。
東大生といえとまだ学生。お金の価値も現在の何十倍ほどもあったのに、なぜ光クラブに出資者がつどったのか?
それは設定されている高額な配当金のためである。
光クラブは月に一割五分の配当を約束していた。年利にすると180%
当時の銀行金利が1.83%だったので約100倍ほども違う。この利回りが出資者の心をがっちりとつかんだ結果だった。
当時は返済の目途がある金持ち相手にお金を貸すのが普通だったが、山崎がターゲットにしたのは一般人。一般人も金貸しの対象としたのは、当時はかなり画期的なことだった。
最初の10万円からわずか4か月で3000万ほど稼いだ。
当時一般人にお金を貸すのはリスキーだった。なのになぜ「光クラブ」は一般人にもお金を貸せたのか。
暴力的な手段をいとわない徹底した債権者への取り立て。
山崎は暴力団の手を借りることもいとわなかった。
転落したきっかけ
しかし彼にも暗い影が迫る。
彼は物価統制令違反であえなく逮捕されてしまう。
法律で決まっている利息を超える金額を出資者に支払っていると告発されたからだった。
しかしこれも彼の計算のうちでしかなかった。
光クラブは株組織であり、出資者は株主。つまり支払われているお金は利子ではなく配当金だと主張。。配当金の上限を決める法律は存在していなかった。
これが通りなんと釈放されてしまう。
が、八人の愛人のうちの一人、秘書が税務署に密告。
密告のため粗悪な経営状態が出資者に筒向けになってしまう。美人秘書は当時交際していた税務署職員から命じられ、潜入スパイとして光クラブ内で活動していたのだった。
経営状態の実態を知った出資者たちから出資金の返還を求められたてしまう。これにより当時の二億円程度の負債を抱え込むことになる。
藤田田は資金繰りに困ったこと山崎から相談された。その際藤田は「法的に解決することを望むなら、君が消えることだ」といった。そして彼は青酸カリによって自殺。昭和24年11月24日のことだった。こうして戦後の日本を震撼させた光クラブ事件は幕を閉じたのだった。
いやーすさまじいですね。
その業務内容もさることながら、徹底した合理主義な山崎が恐ろしい。
死んだあとも遺書には自分の処理の方法を書かれていて、灰と骨は肥料として農家に売却するよう書いてあります。理由は『そこから生えた木が金の生る木か、金を吸う木なら結構』だそうです。彼にとって金を稼ぐということは自分の頭をよさを証明する手段に過ぎなかった、という事実が当時のインタビューで明らかになっています。
日々の行動をつづった日記にはまたこんなことも。
『楽しいから生きてゐる。楽しみがなくなり苦しみが生じたら死ぬばかりである。生命などといふものは要するにつまらないものである』
頭がよすぎるがゆえに、何やら地に足がついていない様子。
ふと目を離せばどこかに消えてそうな、そんな危なさを感じます。
彼の生家は山崎公園として木更津市によって保管されています。興味がある方は行ってみると面白いかもしれません。